きださんちの奥さん

お仕事で高知へ行ってきました。高知と言えば芋けんぴ。四万十郷、南国製菓の水車亭へ。道の駅のお姉さんが水車亭と書いて「みずぐるまや」と読むのだと教えてくれました。夜に行ったなら、ここのイルミネーションはきっともの凄いのだろう。お隣の広場や大きな水車や店舗の屋根まで40万球のLEDがびーっしり!高知屈指のイルミネーションポイントらしい。3月末まで続くそうな。で、芋けんぴ。その種類の多いこと。お土産に買い込みましたよ。

水槽の中に濃い緑色の藻のようなものが広がり困っていました。これは藻ではなく「菌」だとのこと。こまめに掬い取っても拡がる一方でした。ところが、先日愛らしいエビが3匹仲間入りして以来、少しずつ菌が消滅していきゴミも激減したのです。葉っぱの裏まできれいに掃除してくれる甲斐甲斐しい働きっぷり!せわしなく脚を動かしている様はユーモラスで見飽きることがありません。おかげで水までクリアになりました。

ヘッドライトの白い濁り。まるで人間の白内障のようでしたが、夫がコンパウンドっていうのですか、きれいに磨き上げてくれました。愛車が一気に若返りました!

亡父の宇和島中学時代の旧友で、年賀状の遣り取りを続けている方はひとりだけになった。毎年見事なまでの筆字の賀状を母宛てに頂き、お元気でいらっしゃることを確認したものだった。年賀状離れが進む昨今、葉書の来ないお正月はやっぱり寂しいかな。今年も3等の切手が4枚当選。私の年賀切手コレクションに愛らしいウサギが加わることになった。印刷でミスったものや余った年賀はがきは、若干の手数料で官製はがきと切手に交換してもらった。これはものすごく特した気分!

順調に発育していた長女が生後8か月で難治性てんかんを発症して以降、本人は勿論のこと私達家族とりわけ母親である私の人生は大きく変わったと言える。私は長女にかかりっきりで半生を生きてきた。そのことで二歳下の次女にどれほど寂しい思いをさせたことだろう。若かったからこそできたことも多かったし、負うた子に教えられることばかりであったように思う。コロナで施設と自宅の行き来が極端に制限され、昨年長女は一年の3分の2を自宅で過ごした。同じ障害のあるお子さんを持つお母さんと話をする機会があり思いは同じで胸が痛くなった。頑張る人ほどつらいのである。私達も介護や支援が重く感じられる年齢に近づきつつある。先行きの見えない社会、親なき後の不安に胸が押しつぶされそうになる。

タイトルは釣りに行こう!にしようかと思ったけど、寒いので釣りはやめた。いろんな事に疲弊しきっていて何もする気がしない。大切な人を失ってから2年になるというのに未だに悲しみから抜け出せないでいる。ネガティブなことは書かないと決めていたがこれではいけません。今年は頑張ることをやめようと思う。力は「入れる」のではなくて「出す」ものと教えてもらったから。ピンクのセーターを買った。逆に年取って見える気がしないでもないが明るい気持ちになれそう。明日はピンクを着て美容院へ行こう。画像はこの間作った七草粥。シンプルでやさしい味に癒される。

思いおこせば一年前、和霊神社のお御籤で「凶」を引き、大きな不幸事こそなかったが生活に希望が持てるような一年ではなかった。それは我が家に限らず世の中皆同じであったことだろう。来年こそ佳き年になりますよう。今夜は娘たちが帰ってくる。私は「帰宇」という言い方が好きだ。宇和島出身の人しか使わないのだろうか。もんてきさいや~と、宇和島が温かく迎えてくれている気がする。

型紙をおこして防寒用の服を縫いましたが、服を着るのをとても嫌がります。手早く着せられるようにマジックテープにしたのですが… せっかく縫ったのにな

12月に入るとなにかと気忙しくなる。やらなくてはいけないことが山積していて追い立てられるようだ。喪中欠礼のハガキが連日のように届く。年賀状は商売上のもの、プライベート、母の分を含めて今年も160枚。30年前にはピカッと光る「プリントごっこ」、さらにそれ以前は「かわいい印刷屋さん」だったかインクを流し入れて刷ったものだった。今では自宅で簡単に作れる便利な時代になった。とは言え結構な手間ではあるが、それでもやっぱりお正月は年賀状がいい。

休日明けの市立宇和島病院はとても混んでいた。複数の科を受診するとお昼をまたいでしまう。ケンズカフェで昼食。食後のソフトクリームはサービス価格!80代とおぼしきおばあちゃん達の会話が聞こえてくる。思いを寄せる先生に告白したらしい。スゴいパワーだ!

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