· 

エギに纏わる悲しい思い出

誰にも思い出のエギがあることでしょう。私にはエギに纏わる悲惨な体験があります。半世紀も遠い昔の話で恐縮ですが。当時は昭和の高度経済成長期にあって商店はどこも活気があり、実家の釣具店もたいそう繁盛していました。両親が初めて海外旅行で香港へ行くことになり、大学生だった私は店番のために実家へ呼び戻されました。漁具に関して何の知識もないままひとりでお店を開けるハメとなったのです。朝イチでカノ(エギ)の大量注文の電話がありました。あるだけ全部と言われるままにありったけのエギを船便で送りました。手作りのモイカガノはウチの主力商品で生産量が少なく、父がシーズンに備え一年かけて大事にストックしてきた希少品でした。その日はカノを求めるお客さんが引きも切らず、品物がないと分かって怒り出す人もいて、泣き出したい気持ちでした。レジャーとしての釣りはまだ定着してなかった時代のこと、お客のほとんどはプロの漁師で、漁具の仕込みは漁師さんにとっては生活のかかった真剣勝負なのでした。島しょ部からわざわざカノを買いに来ていただいた方には申し訳なく私は一日中頭を下げて謝り続けたのでした。折しも二十歳の誕生日のその日は強烈な寒さと暴風でした。初めての海外旅行に浮かれた両親は、防寒対策はおろか商売の引継ぎすらせず、なにもかも娘に丸投げしていったのでした。実家の二階で「香港百萬弗の夜景」と書かれた古い写真パネルを見る度に、悲惨な二十歳の誕生日を思い出します。